昭和41年01月22日 朝の御理解
教祖の神様が陰で人を助けよと仰っとられます、私し共は陰で人を助けると言う様な事は、まあ、出来ないに居たしましても、陰で人を落とし入れたり、陰で人を殺したりする事の方が、多い事ないだろうかとこう思います。信心さして頂く者は、ここんところを一つ、日々の心掛けの中に、思っておかなければならんのですけれども、中々人を陰で傷付けたり陰で抹殺したりして、行きよる様な事はないだろうか。
教祖の神様はそこん所を、陰で人を助けよとこう仰る。助ける前に先ずひとつ、相手が落し陥る、落し入れられる様な事を言うたりしたりしておる様な事はなかろうか。まあ例えて言うなら、ここに一枚の大した事のない、その絵が一枚あると致しましょうか。大した上手に書いてある絵でもないのだけれども、もう、こんな絵と言うて捨ててしまえば、もうその絵を殺した事になる。
それに適当な額縁の一つも捜して入れる事にしますと、その絵が言わば生きて来る。してまた、私共が信心して、あのおかげを頂くと言う事。信心しておれば恐いものはないと、恐いと言うておるのは、私し共の心の迷いだと言われておりますけれども、私し共は、前途に余りに恐いもの言わば、不安なもの心配になる事柄があまりにも多い。恐くないものを、恐いと。
迷信する、迷う。私しは今日頂きます様に、人の陰で人を助けよと仰るが、本当に陰で人を助ける働きがなされる位の内容にならないと、何時まで経っても、私くしは不安になるのじゃなかろうかとこう思う。陰で人を殺しとる。まあおるから又何時自分が殺されるやら分らない。そういう不安なのですよ。厳密に言うと人を陰で落とし入れとりますから、矢張り又何時自分が落し入れられるやら分からないと、言った様な不安なんです。ですから私共が本当、人を落とし入れるんではない傷つけるのではない。
殺すのではない。生かして行き。癒していき。又は救い上げて行く働き。しかもそれが陰で黙々となされていくと言う時。そういう私しは信心が自分の身に付いて来る時、確かに不安と言うものは無くなり、恐いというものは無くなり、よし困った難儀な事があってもですね。その事を神愛の現われとして。本当に素直に頂けて頂ける所のおかげが頂けると思うんです。私し共は、迂闊にしておりましても迂闊の中に人を落とし入れております。昨日ある方が参って来てからですね、同じ信者さん同志の子供なんですよ、私しその方から初めてこと、初耳なんですよ。
あらあの人そげな事。そうですかちてから、聞かせて頂いたんですけれども。これはもう完全に、その人はいわゆるその人を、落とし入れた事になりますですね。私しの知らなかった、例えばその人の悪口を言うと致しましょうか、それを聞いて、私しがですあらそげな人ですか、羨ましがるなら、ばってんあらそげな風ですかと言うごとなった時は、もうすでに殺しとる時です。
どっちを殺すかと言うと、悪口を言うた人が殺す事になる訳なんですよ。所が例えばとし、そんならもうその悪口をその言うと致しますか。まあ言よんなさるから聞くと致しましょうか。そうですか初めて聞きました。それでもこの人にはこういう素晴しい所もありますよ。っち言うたら、相手の方がそうですか。もう知りませんでした。私しは相手が殺さしゃったのを少し、生かしてあげたと言う気が致しますですね。相手から悪口を聞いた。そんな事を言いましたか。
そんな事を、もうそんな人とは思わなかった。そげな奴ですかという、いうごとなったらもう相手も、そん言うた人は、その人を知らん間に陰で殺した事になる。陰でて言うのはそんなこつじゃなかろうか。今日は私はぎりぎり、そう言う所に焦点を置いて、自分の周囲の人達、実を言うと自分と言う者を本気で見極めたら、人の悪口どん言われるだんの自分でないですもん。ですから本当に、自分と言う者を分からして貰うてです、人の不行届きが目に付く位ならです。
自分の不行届きがある事、本当に気付かして頂いて、人の不行状が目に付くならです、自分自身にそういう不行状の、いや本当に言ったら、もっと醜い不行状のある事を気付かして頂いてですね。とてもとても人の事どん、悪うどん言うだんじゃなし、よし例えばんなら、そういう場にあったらです、教祖の神様は、もう出来るだけその場を逃げよとおっしゃっておられる。人が、人が悪口を言う様な時には、その場におっては、その場を逃げよという位いな気持ち。
けども人が悪口を言いよったら、本当にこちらが聞き耳を立てたいごたる心とは、何時までも陰で人を殺める事になり、傷つける事になる。して、殺す事になるわけなんです。私共心掛けさして頂きますとですね、それを本当に自分をいよいよ深めさして頂かさして貰い。自分と言う者を分からして頂いたらです、人の悪口だんじゃない。そして私しゃ出来るならばです。それを生かして行く、陰で人を助けよと、その人例えばまあいうならしかともない、得勝手な人でもです。
その人を言わば讃える額縁があったらです、その詰らない絵が生きて来る様に、その生かして行くと言う事を、神様は喜んで下さるのです。私し共は、チョット心して見ますと、あらあれも傷付けよるのであろう、あれも落とし入れてるんであろう、あれも殺しておるんであろうと、言う様な事があるんです。そこん所を、私共は、要心さして貰うと言うか、まあそういうな時には、本当に自分と言う者を、いよいよ分からして貰って、人の事ども言うだんじゃない私しであると言う事。
同時に私しは、信心の喜びの心をもって、それを生かして行けれるおかげ。そこには神様の御喜びが、私し共の心の中に。何となしにほのぼのと人の事をこう、誉めたり称えたりすると、自分の心の中に、頂くものは、あげな悪口は、言わなよかったと言よる時にはですね、もうすでにその人は不安なものがでけてきた証拠ですよ。いわゆる恐いものがもう出けた訳なんですよ。私し共の行く手に恐いものはないと言う様な、おかげを頂く為にもです。自分自分の周囲を生かしていく。額縁を何時も用意しておかなければならんと思うですね。
どうぞ。